入居者様が語り継ぐ戦争体験

 8月15日、今年で76回目の終戦記念日を迎えました。さわやか倶楽部の介護施設には、戦争を経験された方々が多く入居されています。埼玉県日高市にある「さわやかひだか館」では、終戦当時の様子や体験したことなど、貴重なお話を入居者様に語っていただきました。


■山田 喜美子様
戦争当時は長崎に居ました。原爆投下から2年後に爆心地に行きましたが、何も無くなっていました。その時、とても深い悲しみを覚えました。草木は生えないと言われていましたが、今は花も咲いてとても嬉しいです。平和公園の近くに家を買って住み、自分の散歩コースにもなっていました。やはり平和が一番ですね。


■平山 洋子様
原爆が投下された日に、両親は長崎市にいました。空襲があった為、私は長崎市外の祖父母の家に疎開していましたが、家族のことがとても心配でした。しかし翌日、父が特別夜行列車で会いに来てくれて、とてもとても嬉しかったです。家は焼けてしまいましたが、母も姉も生きていて本当に良かったと思いました。


■田口 セツ様
青森県に居て、戦争当時は女学生でしたが、よく働かされました。学校で毎日兵隊さんの衣類、特にふんどしを1日10枚縫っていました。終戦の日はラジオの前で待っていたら、戦争が終わったと放送がありました。明治生まれの父が「大日本帝国が負けた」と泣いていて、その姿を見てとてもショックでした。でも私は戦争が終わってホッとしました。周りはなんとなく分かっていた様子でした。日本人は皆死ぬと思っていましたから。毎日空襲がありましたが、その日は静かな日でした。その後は食べる物がなく大変でしたが、今は食べる物があるから幸せです。


■楠島 絹子様
東京の亀戸に居て東京大空襲に遭いました。小学2年生でした。叔父さんに「防空壕には入るな」と言われ、空襲の時は側溝に母と隠れていました。翌日、その防空壕で沢山の人が死んでいました。家は無くなってしまいましたが、父も弟も無事で、とても嬉しかったです。終戦の時は畑にいて、周りの人に知らされました。兄は竹やりの訓練をしていましたが、それで飛行機を落とすなんて出来る訳ありませんよね。戦争なんてしない方が良いです。


■石塚 タツ様
鹿児島に居て女学生でした。敵が攻めてくると、毎日毎日タコツボ(一人用の塹壕)掘りをやっていました。ある日、竹やぶから海岸を見ると何十もの軍艦が来ていましたが、艦砲射撃はありませんでした。終戦はラジオで知りました。その時は本当に日本が負けたのかなと思いました。でも今考えると、あの数の軍艦を見たらアメリカに勝てる訳ない、戦争が終わって良かったです。


■加藤 愛子様
埼玉県の川越に居ました。奉仕で上福岡の陸軍兵器工場に居ましたが、毎日毎日空襲がありました。ある日、工場の火薬庫で大爆発があり、その事故で右耳に怪我をして、体中に火傷を負いました。終戦の知らせは病院のベッドで聞きました。体が動かず、何も考えられませんでした。結局、15人怪我をして10人が亡くなしました。私は生き残った1人です。


■坂上 トミ様
北海道で昭和19年から女子挺身隊に居ました。函館にある海軍のかんづめ工場で働いていましたが、ある日、石炭トラックから転落して右膝が不自由になってしまい、その為ずっと家にいるようになりました。終戦は叔父さんが日本は無条件降伏したと知らせに来てくれました。悔しかった。戦争はみじめだ。負けたら尚更みじめだ。だから平和が一番です。


■丸山 康雄様
長野県で陸軍師団司令部の航空隊に居ました。特攻要員でした。終戦の2週間前になると、全員特攻すると言われて「やるべき時が来た」と思いました。終戦は栃木県の壬生飛行場でラジオを聞いて知りました。日本が負けた、と同時に軍のだらしなさを心の中で批判しました。いつでも死ねる気持ちでいたのに。8月18日に部隊解除命令が出ましたが、9月20日くらいまで残務整理の為飛行場に居ました。今は、戦争はなければいいと思います。平和に暮らしたいです。


■根岸 祐次郎様
海軍の横須賀海兵団に居ました。特殊潜航艇の機関要員で、特攻要員でした。しかし、戦局が悪かった為、潜航艇もなく出撃できませんでした。終戦の時は部隊のラジオで聞きました。戦争が終わった時は、ただびっくりしました。戦争が終わって良かったとは思わず、後の事は何も考えられませんでした。1か月ほど部隊で残務整理をして復員しました。この話をするのは今回が初めてです。


■N様
東京の江東区に居ました。女学生で勤労奉仕団で軍需工場で働いていました。毎日空襲がありました。東京大空襲の時は、防空壕は人が一杯で入れず、小学校の貯水槽に浸かって隠れていました。しかし、父とはぐれてしまい、母は小学校の貯水槽で亡くなりました。冷たくなって浮いていて、とてもみじめでした。父の遺体は見つかりませんでした。でも、そんな時に親戚や物がある人は薄情で、びしょ濡れでも毛布1枚くれませんでした。疎開しても空襲がありました。その地域の人は防空壕にも入れてくれず「疎開人、疎開人」とバカにされました。防空壕の壁にへばりついて空襲を免れました。その時に「これからは絶対に負けない」と思いました。終戦は周りのみんなが「戦争が終わった」と言っていたのでわかりました。日立工場に居た時に艦砲射撃に遭い、砲弾が近くに飛んで来ました。しかし不発弾だった為、命が助かりました。アメリカの射撃は正確だなと思いました。あんな国に勝てるわけないよね。戦争は色々なものを奪い、みじめになります。本当に戦争が終わって良かったです。


<担当職員より>
辛いお話をしていただきましたが、最後には笑顔で皆さん「戦争が終わって良かった」「平和が一番」と同じようなことを言われていました。この方々のような戦争経験談等を私たちは後世に伝えていかなければならない義務があると思います。なぜならば、幾万の犠牲を払って先人達がつかみ取った平和なのですから。この先も平和を祈りつつ生活していきたいですね。今回は、貴重なお話を聞かせていただきありがとうございます。これからも、笑顔で楽しくお過ごしください。(齋藤 浩人)