75回目の終戦記念日を迎えて

【命の大切さを意識しよう】

 新型コロナウイルスという新しい疫病が世界中で猛威を振るい、日常生活の姿を大きく変えています。さわやか倶楽部の介護施設においても感染者が発生する中で、多くの職員が自分自身の感染のリスクを認識しながらお客様の安全な生活のために尽力してくれていることは、たいへん誇りに思い、心から感謝しています。

 また近年は、急な豪雨や台風などによる大規模災害も多く発生しています。今年の7月に熊本県で発生した記録的な集中豪雨では、川が氾濫した地域にある高齢者施設で多くの入居者の方が犠牲になるという、たいへん心を痛めるニュースもあり、非常時に対する日頃からの備えの大事さを改めて突き付けられました。 私たちは、いつどこで命の危機に遭遇するかわかりません。今生きている私たちにも、いつか必ず死の瞬間が訪れますが、それがいつかは誰にもわかりません。自分の死が目前に迫った時に、今までの人生に納得して死ねるような生き方をするために、私はいつも「何のために生まれてきたのか」を考えながら、人の役に立つという使命感をもって行動するようにしています。そして、毎年8月15日の終戦記念日には、社員の皆さんにも命の大切さ・尊さを考える機会にしてほしいと願って、8月の月例会議では必ず戦争の話をします。

【75年前の夏の出来事】

 今年の8月15日は75回目の「終戦記念日」でした。今から75年前となる昭和20年(1945年)の8月、私は当時4歳でした。8月9日に長崎市に落とされた原子爆弾は、もともと現在の北九州市小倉北区大手町に投下される予定でした。当時、大手町付近には、日本軍の武器を開発・製造・貯蔵する小倉陸軍造兵廠(こくらりくぐんぞうへいしょう)があり、米軍の第一目標でした。しかし、当日の小倉上空は厚い雲と煙が立ち込めており、目標地点がはっきりと確認できなかったため、米軍は原爆の投下目標を急きょ第二目標であった長崎に切り替えたのです。

私たち家族は大手町のすぐ近くに住んでいました。当初の予定通り小倉に原爆が投下されていたら、私自身も命を失っていたかもしれません。皆さんとこうして一緒に仕事をすることもなかったでしょう。そして、今生きていること自体が決して当たり前ではなく、命があることに感謝し、神様から生かされたのは必ずこの世で果たすべき使命と役割があるからだと思うようになりました。

 第二次世界大戦で亡くなった方々は全世界で5000万人~8000万人もいます。その悲惨な戦争の中で、世界で初めて原子爆弾が兵器として使用され、投下された国が日本です。その後、私たちの先輩にあたる現在の高齢者の方々が、骨身を削ってたいへんな苦労をしながら戦後の復興に尽力していただいたからこそ、現在の平和な日本で豊かな生活を送ることができます。日本で生まれ育った私たちは、そのことを決して忘れることなく、平和の尊さを後世へと語り継いでいく使命があると思います。

 さわやか倶楽部の介護施設には、戦時中を生き抜いてこられた高齢者の方が多く入居されています。終戦後75年が経過し、戦争を体験された方の生の声に触れられる機会も年々減っています。お客様との会話の中で戦争体験に触れる機会があればしっかりと耳を傾け、二度と悲惨な戦争を起こしてはならないという強い思いを胸に刻むようにしましょう。そして終戦後、食べるものも着るものも寝るところもない中、日本が立ち直るために寝食を忘れて頑張って働いてくれた今の高齢者の方々に対する心からの感謝と敬意を、仕事を通して伝えていきましょう。

ウチヤマグループ代表 内山文治